Sukiyaki Restaurant IMA-ASA since 1880
すき焼今朝ロゴ
すき焼今朝

明治5(1872)年1月24日に肉食奨励の為、明治天皇(1852-1912)自ら牛肉を初めて試食されて以来、文明開化と共に肉食がブームとなり、この年、新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に鉄道が開業して、〈今朝〉は東京の玄関口に店を構えることとなります。

〈今朝〉が創業した明治13(1880)年には、「君が代」が林廣守によって作曲され、上野には博物館が建てられ、鉄道馬車の敷設が上野・浅草・新橋間に認可されています。

同じ頃、帝都東京では雑煮屋、汁粉屋が流行し、英国ではベンジャミン・ディズレーリ(1808-1881)がアイルランドの自治法案を巡る選挙で敗北して首相を辞任。フランスはタヒチを植民地化、ギ・ド・モーパッサン(1828-1909)が短編小説『脂肪の塊』を発表して一躍名を馳せました。オーストリアでは、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が《大学祝典序曲》を作曲。アメリカは、時あたかも西部開拓の華やかなりし頃でした。

牛肉を食べるといっても、東京では鍋で煮込むのが中心です。当時は肉の臭みを消すために味噌仕立てが多い中、〈今朝〉では最初から醤油仕立ての割り下を使っておりました。この頃は牛肉だけではなく、鶏肉も扱っていました。

牛鍋はすっかり庶民の食べ物として定着し、和洋折衷の洋食が浸透してきました。 二代目、勝三郎の時代に入り、大正11(1922)年に〈今朝〉は新橋駅前の新橋ビルに洋食〈IMAASA〉を開店しています。 翌年3月には「今朝商業株式会社」として会社組織となりました。 そして、この年の関東大震災の後、大正14(1925)年にはいち早く鉄筋コンクリートの本店を再建。 当時、簡単に食べられるすき焼丼、親子丼、天丼など丼ものがもてはやされると共に、関西から「すき焼」が入ってきます。 それまでの牛鍋は牛肉と白い葱だけでしたが、豆腐や椎茸、白瀧など食材が増えて豪華になり、熱々で火傷をしない玉子を付ける食べ方も東京に定着しました。 それにより、牛鍋からすき焼と看板を替えたようです。

二代目勝三郎は置屋で〈今朝〉の出前を取ったり、神社に灯籠を寄進したり、変わった趣向の宣伝もしています。

昭和5(1930)年に三代目、朝雄の時代となりました。この昭和の初めには、〈今朝〉に総勢50~60名の住込みのお姐さんたちが4人の女中頭の下、四斑体制で働いていました。昭和13(1938)年に桃山式の純日本建築に改築し、最盛期を迎えます。しかしながら、大東亞戦争の戦局悪化に伴い、昭和15(1940)年には食料品が統制となり、昭和19(1944)年3月1日には配給もなくなり、休業を余儀なくされます。度重なる空襲を耐えた〈今朝〉も、昭和20(1945)年の8月に入り、延焼を防ぐために建物が壊されてしまい、廃墟となってしまいました。

戦後、疎開先から戻ると〈今朝〉の半分の土地が不法占拠され、新橋駅前の闇市と共に混乱した時代でした。昭和32(1957)年になり、やっと法廷闘争の末に元の敷地を取り戻し、東京オリンピックのあった昭和39(1964)年に、この第一京浜ではいち早く鉄筋コンクリート9階建ての社屋を建てました。昭和40(1965)年「市街地改造法」に基づき、新橋駅前付近を取り壊して「新橋駅前ビル」ができると共に、四代目、紫朗の時代となり、駅前ビルで営業を開始します。すき焼〈今朝〉はすき焼だけではなく、しゃぶしゃぶを始め、夏の暑い時季にさっぱりとした牛肉を食べてもらおうと、新たに冷たいしゃぶしゃぶ「新涼造り」が昭和43(1968)年よりメニュに加わり、高度成長と共に高級化し、サラリーマンの接待需要に応えてきました。

黒毛和牛の中でも、松阪牛にこだわり、良質な牛肉と新鮮なザク(野菜)を変えることなく国際觀光日本レストラン協会に加盟し、外国人のお客様も増えて参りました。突然、新橋の交差点角の交番から電話があり、英語のできないおまわりさんの手助けをしたこともあったそうです。

そして、雑居ビルでの営業に支障をきたしたため、昭和55(1980)年、今朝百周年を記念として、創業地に戻り、今朝ビルの2階で営業を続けています。

バブル崩壊後、平成19(2007)年から、五代目、朗の時代に入り、ソムリエの資格を生かして、すき焼とワインのマリアージュにも力を入れ、すき焼屋の集まりであり、すき焼の食材屋さんやすき焼好きな人との交流の場でもある「すきや連」にも名を連ね、新たなすき焼の楽しみ方を研究しています。