昭和5(1930)年に三代目、朝雄の時代となりました。この昭和の初めには、〈今朝〉に総勢50~60名の住込みのお姐さんたちが4人の女中頭の下、四斑体制で働いていました。昭和13(1938)年に桃山式の純日本建築に改築し、最盛期を迎えます。しかしながら、大東亞戦争の戦局悪化に伴い、昭和15(1940)年には食料品が統制となり、昭和19(1944)年3月1日には配給もなくなり、休業を余儀なくされます。度重なる空襲を耐えた〈今朝〉も、昭和20(1945)年の8月に入り、延焼を防ぐために建物が壊されてしまい、廃墟となってしまいました。
戦後、疎開先から戻ると〈今朝〉の半分の土地が不法占拠され、新橋駅前の闇市と共に混乱した時代でした。昭和32(1957)年になり、やっと法廷闘争の末に元の敷地を取り戻し、東京オリンピックのあった昭和39(1964)年に、この第一京浜ではいち早く鉄筋コンクリート9階建ての社屋を建てました。昭和40(1965)年「市街地改造法」に基づき、新橋駅前付近を取り壊して「新橋駅前ビル」ができると共に、四代目、紫朗の時代となり、駅前ビルで営業を開始します。すき焼〈今朝〉はすき焼だけではなく、しゃぶしゃぶを始め、夏の暑い時季にさっぱりとした牛肉を食べてもらおうと、新たに冷たいしゃぶしゃぶ「新涼造り」が昭和43(1968)年よりメニュに加わり、高度成長と共に高級化し、サラリーマンの接待需要に応えてきました。
黒毛和牛の中でも、松阪牛にこだわり、良質な牛肉と新鮮なザク(野菜)を変えることなく国際觀光日本レストラン協会に加盟し、外国人のお客様も増えて参りました。突然、新橋の交差点角の交番から電話があり、英語のできないおまわりさんの手助けをしたこともあったそうです。
そして、雑居ビルでの営業に支障をきたしたため、昭和55(1980)年、今朝百周年を記念として、創業地に戻り、今朝ビルの2階で営業を続けています。